実は・・・
牛肉なんて、嫌いだった。
子供の頃の私は、とても貧しい家庭に育った。
身の回り殆どが、兄貴のお下がり。
食事もごたぶんなくって感じで、牛肉は固くて臭い輸入肉しか食えなかった。
まあ、世の中には段ボール食ってた人も居るらしいし、3度の飯に
ありつけるだけマシだってことは、社会人になってから
知る事となるんだが、幼い私にそんな考えが生まれる事もなく、
「僕ってけっこう不幸やし、貧乏やなぁ。」
って思っていた。
固くて不味い輸入肉の威力はそれはすごかった。
「焼肉やで!」なんて言われても、ちっとも嬉しくなかった。
同級生たちが喜ぶその言葉に、私は心の中で肩を落とした。
「今日は焼肉か。。。」
好き嫌いがバレると、とんでもなく厳しい祖母から
どんな無茶ぶりされるかわからなかったため、
出来るだけバレない様に焼き野菜とタレで、なんとかご飯をかき込んでいた。
これでまずます牛肉嫌いが加速していく事となる。
中学を出て、ほんの少しの高校生活を経て、社会人になった。
日雇いの現場作業。汗と泥にまみれて働いた。
当時の兵庫県は震災後の復興需要があり、建設業界はそれなりに
潤っていたように思う。
しかし、それも2年ほど。
やがて収入が不安定になっていく。
そこで当時、連れと行きつけにしていた洋風居酒屋がアルバイトを
募集していたので働く事とした。
そんなある日、車で重大な事故を起こしてしまい
賠償金の支払いが重く圧し掛かってくる。日雇いでは
とても払えない事から、居酒屋の社長にそうだんすると
ちょうど事業を拡大している最中だった時期と重なり、
社員として雇ってもらえる事となった。
料理の世界へ
そうして私は、料理の世界に入った。
包丁を持ち、鍋を振り、食材と向き合う中で、少しずつ
食うってことの意味を知っていった。
「美味しい!」
「また来るわ!」
自分の作った料理で喜んでくれる人が居る。
どんどん、料理の世界へのめり込んでいく私。
そして、興味は食材へと移っていく。
魚に野菜、鶏肉。
仕入先の市場にそれぞれ専門店があり、そこで
少しづつ学ばせてもらっていった。
素材をプロから学ぶ事で、確実に料理の質が上がっていく。
そうやって充実した日を過ごしながら、更なる興味を満たすために
今度は肉について学ぼうと考えた。
そこで常連のお肉屋さんに紹介してもらったのが
今、私が勤めている和牛うらいだった。
週に一度、お店に出入りさせてもらい
牛肉だけでなく、豚肉も学ばせてもらった。
でも、牛肉だけは、ずっと苦手だった。
そんな私にある日、転機がきた。
人生1度目の底で
急拡大していた事業の失敗に、酒や女、趣味へと散財を繰り返す経営者。
丁度そのころ、私は子供を授かり住み込みに。
給与の出ない日が続き、生活も、心も、どん底に陥った。
やがて半年以上、給与が出ない状況に陥り、
家族を守る為、転職しなければいけないと考えるようになった。
半年以上も我慢できたのは、事故の賠償金を支払う為に
雇い入れてくれた恩義からだったのだが、もうこれ以上待てなかった。
そんな今の自分受け入れてくれたのが和牛うらいの社長。
まさに、命の恩人だ。
そして、相談に行った際に食べさせてもらった和牛肉が
今の私の原点だ。
「それは大変やったな。」
「まあ、これでも食えや」
と差し出された一皿のすき焼き。
和牛うらいのブリスケだった。
ひと口食った瞬間、衝撃が走った。
こんなに優しく、こんなに温かく、
こんなにうまい肉がこの世にあるのかって。
何度も店に赴き、学ばせてもらい、仕入れも
させて貰っていた。でも、牛肉嫌いは治らなくて、
味見もほんの少しだけ。
お客さんから、
「この煮込みめっちゃ美味しいわ!」
なんてお褒め頂いても、
「牛肉好きな人やなぁ。」
と素材にきちんと向き合っていなかった。
そんな元来の牛肉嫌いであった私も、
どん底生活の果てに食べたブリスケから
素材に向き合い、惚れてしまったわけである。
あの日から。
そして肉職人へ至る
そして、肉を扱う職人の道を選んだ。
うまい肉は、ただ腹を満たすだけではない。
人の心を満たす。
人を笑顔にする。
人生さえ、変えてしまう。
それを、私は知っている。
だから、今日も真剣に肉と向き合う。
不器用なりに、手を抜かず、妥協せず、
一切れ一切れに、魂を込める。
「meat to meet」──肉は引力。
うまい肉は、人と人を引き寄せる。
そして、幸せを連れてくる。
私の仕事は、ただ肉を売ることじゃない。
肉で、人を笑顔にすることだ。