「なんで雌牛だけなんですか?」
この質問を、何度受けてきただろう。
お客さんから、業者から、時には同業者からも。
その度に私は、少し考えてから答える。
言葉にするのが、難しいからだ。
理屈ではない部分が、確かにあるから。
私が和牛うらいに勤めて、今年で25年が経つ。
この店は現会長がお店をついでから間もなく、黒毛和牛だけを取り扱うようになり、
そこから更に品質に拘り、雌牛だけを扱うようになってからは30年以上が経っている。
入社時から、そう言った環境で仕事をしているので、
最初は、それが当たり前だと思っていた。
ここはそういう店なんだ、と。
しかし、年月を重ねるうちに、その意味が身体でわかるようになってきた。
雌牛の脂は、総じてやさしい事が多い。
融点が低く、人肌に近い温度でとろけ始める。
あの「口の中で溶ける」という感覚は、雌牛の構造が生み出すものだ。
肉質はきめ細かく、繊維が細い。
去勢牛も、技術でそこにぐっと近づけることはできる。
しかし、生まれ持った雌牛の質感には、簡単にはかなわない。
同じ等級であっても、市場が雌牛を高く評価するのは、そういう理由からだ。
いわば、外れを極限まで減らすのが、雌牛を扱う上での最大のメリットと言えよう。
ただし、雌牛を扱い続けることは、容易ではない。
最大の理由は、色変わりの速さだ。
牛肉の色は、ミオグロビンという色素タンパクの総量と挙動によって、おおかた決まる。
空気に触れると鮮やかな赤へと変わり、さらに酸化が進むと褐色へと変化していく。
雌牛はこの変化が、去勢牛と比べて著しく早い。
ショーケースに並べた瞬間から、時間との戦いが始まる。
色が変わった肉は、お客さんの目には「鮮度が落ちた肉」に映る。
だから雌牛を扱うには、仕入れのタイミング、カットの順番、陳列の判断、すべてに精度が要る。
手を抜ける工程が、そこにはひとつもない。
うらいにはさらに独自の仕入れ基準がある。
雌牛であること。肥育月齢30ヶ月以上。枝肉重量450kg以下。
ここから更に、肉質や脂質、そして細かい独自の基準を視ていく。
この基準を外れると、たとえ有名ブランド牛であっても仕入れない。
ブランドについては、別の機会に詳しく書こうと考えているが、
現行の殆どのブランドが、端的に言えば品質を表しているとは
言いにくい。それよりも、牛を1頭1頭見極める方が重要だ。
私の選んだ牛が、たまたまブランド牛だったというぐらいの感じ。
私はその基準のもとで、25年間枝肉を見てきた。
なぜ、雌牛だけなのか。
答えは、実にシンプル。
科学的に見た場合の、雌牛を選ぶ理由とは、
雌牛を選ぶ事とは、すなわち外れ(美味しくない)の可能性を極限まで減らす事。
美味しさへの近道であり、信頼への投資。
ただ、心情的にはというと、まあ
自分達の信じる道、とでも言おうか。
手間がかかるから、なんてやめる理由にはならない。
美味いから、続ける。それだけだ。
25年間、雌牛だけを見てきた人間が言う。
これが、答えだ。
