毎日肉を切る職人が、改めて考えてみた。
職人というのは、慣習的になって良い部分と悪い部分がある。
毎日、肉を切っていると、だんだん「当たり前」になってくる。
なぜ、この肉がこうなるのか。枝肉を見た時に、思い描いた事と、
今の所感は、整合性は取れているのか。
初めて枝肉を見た時に、ワクワクした想いを、今も同じように持つ事は出来ないが、
「このお肉、めちゃくちゃ美味しいですね!」
と言って貰いたかった、当初の情熱は忘れていないか。
そういった、肉に対して向き合う、所作は慣習的に
なってはいけないと、私個人的に思っている。
対して、日々の磨きや、捌きはある程度、慣習的になっていいと思っていたのだがー
先日、久しぶりに神戸ビーフを購入し、捌いた。
いつもの和牛を捌くようにすると、細かな傷がチラホラ出来る。
あっ
と思うと、包丁は既に肉に到達している。
枝肉とは面白い物で、品種の違いが顕著に出る。
和牛うらいは、黒毛和牛の雌牛しか扱わないので、
去勢や、交雑を捌く機会は殆ど無いのだが、
骨の太さや、骨の幅、スジと骨の付き方まで、品種でかなり違う。
そして、生産者や瑕疵、屠畜からの枝枯らし日数など、
条件を上げればキリがないぐらいに、昨日と同じ肉は無い。
この神戸ビーフのお陰で、捌きを覚えだした時の事を思い出した。
「骨に、肉が一切付かないぐらいの精度で捌いてやろう。」
「いつか、仕上がりの美しさだけでも、師匠を超えてやろう。」
覚えたて当初の頃は、そんな事を考えながら取り組んでいた。
私が師事した方は、日本の捌き職人が一同に会する技術コンテストで
、チャンピオンになった経歴の持ち主だった。
しかも、当時は卸売業者の捌き業務を請け負う会社を興していたので、
美しさだけではなく速さも兼ね備えていた。
当時で、すでに齢50を超えていたが、20代前半の私など
速さだけでも足元にも及ばず、「化け物やなぁ。」と思っていた。
今では、私は当時の師匠の年齢に近づいてきているが、
技術だけでも、当時の師匠に迫っているのだろうか。
などと、この神戸ビーフを捌きながら、ふと思い出したのだ。
技術は、幾つになっても衰えない。
それどころか、修練すれば上達する。
包丁を日々握っていて、痛感する。
こんな当たり前の事を、さも自分は仕事が出来るかの如く、
慣習的に枝肉に、仕事に向きあっていたのだと、
お陰様で思い出す事が出来た。
あの日から、数週間が経ち、
神戸ビーフの状態が最高潮に向かっている。
注文を受け、包丁で切り出す。脂を一口、口に運んでみる。
美味い。
この時の為に、この味の為に。
私が魅了されたのは、
【自分の技術が、美味しいを進める】
という事実。
自分が手当したお肉が、想像通りに育つ。
磨けば磨くほど、光る技術。
幾つになっても、職人はやめられない。
そういう、職人の後ろ姿に、20数年前の私は魅了されたのだ。

